1618年古都ウドン、1866年首都プノンペン

古都ウドン
田舎へ行くほどバイクが多い-古都ウドンへ
Aug. 12, 2025~Aug.17, 2025
カンボジアでは、125cc以下のオートバイ運転時に免許が不要ですが、ライセンスそもそもないので交通法規がどのように守られているか疑問です。ベトナムほどバイクの交通は多いように見えなので、せめて国際免許に書き換えて運転しようかと考えてみましたが、日本の交通法規が通用しないので諦めます。
プノンペンのような都会では、ヘルメット装着普及率も高いですが、今日訪れる国道5号線を北へ溯っていくと、装着している人がグーンと減少してしまします。
ほうぼう見渡すと、学校(中学校くらい?)の放課後になると、学校のまわりには親が車で迎えに来る光景も見られますが、一方でバイク通学だったり、二人乗り以上の3人乗りの姿があったりします。
ライセンスが不要といっても、年齢は18才以上ということですが広いエリアで学校教育となれば交通の足の確保という意味でバランスを取るのはむずかしいのだろうと思う。その昔、日本では学校建設に支援していたと思うが、そこに通うスクールバスのような制度が今は必要になっているように思う。
東南アジアで、自動車と自動二輪の日本の免許を持っていても、現地で乗りまわす勇気はないなぁ、歳かな?
カンボジアはカボチャ(パンプキン)のシルバー細工
本日は国道5号線を使い古都ウドンへ行くことにしている。その道すがら「シルバーの細工工場」へ立ち寄ってみる。この界隈に加工場が10年位で集まってきて銀村(シルバービレッジ)というらしい。
またこの細い道には、トンレサップ川に向かって銀の工場や販売店が多く集まっているようだった。
いくつか象の小物ケースを銀製品で購入したことがあるので、その加工はどのような感じで作られていくのかという工程が気になっていたのでその一つに立ち寄ることに決めた。
手作業で板から叩いて伸ばしていく様は、見ているとその熟練の姿を垣間みる。形がある程度整うと細かい装飾に取りかかっている。
日本のカボチャは南瓜と漢字で書くが、この野菜をカボチャと呼ぶようになったのは、カンボジアと深い関係があってポルトガルと交易があったときにはじめて入ってきた。そのときに、ポルトガル語でカンボジア産といったものをあやまって野菜の名前と語釈したことにあるらしい。
カンボジアでは、カボチャは種が多いため子孫繁栄や五穀豊穣による金運にも恵まれると工芸品としても作られお土産品として親しまれています。

カボチャの銀細工はよく作られている。
展示販売スペースでは、シルバー925の商品が並んでいます。すべての販売価格は重量換算なので、興味はありましたが購入はしませんでした。ちなみにクレジットカード決済はできるようです。
シルバー工場を出て目的地のウドン手前に、日本人医師がいる病院がある。この病院はプノンペンの市民にとってもかなり信頼度が大きい。高度な医療が提供されているとガイドさんも語っていた。
横から見た方が、日本の医療機関ということがわかりやすいかも。Japan Heartの活動がわかるWebサイト。

Japan Heart
ウドン近郊には、日本人町があったとのことその痕跡は残ってはいないようですが、日本とはゆかりの地区とも言えそうです。
麓の市場を通って旧王都の階段を登る

大きくはないが、地元の人達で集う食材市場
市場の横を通って行くことで、カンボジアの約50年前の歴史を垣間見ることができる。ポルポト政権下のクメール・ルージュの弾痕である。

砲撃の痕がここでは癒えていないように見える。
弾痕の形跡がある道の手前には、クメール様式のレンガでできた祠堂が木々に覆われたままの姿で見えている。
1431年ポスト・アンコールと呼ばれた時代がある。現在のタイのアユタヤ朝が成立してシャムとクメール軍が戦いアンコール朝が占領され陥落する。そのため、王朝はメコン川の流域のスレイサントーに遷都し、3年後には、現在の首都プノンペンに移す。
さらに、今訪問しているウドンの北にあるロンヴェークに新都を築くが、再びシャム軍により陥落する。1618年、チェイ・チェッタ2世はベトナム軍の支援によりシャムを撃退し、ここウドンに遷都してみせた。時に1618年から1866年までの250年余りである。
そのような経過でできた古都ウドンは、1977年の砲撃で仏跡を失っていった歴史がある。
こちらの道を使って4つの仏塔に行くほうが、穏やかな登りだという。このウドンは古都という文化施設であるにもかかわらず、砲撃によって破壊された歴史がある。その修復も順調に進んでいる。
少し傾斜のある道を進むと正面に寺院が見えてくる。そこを右に入ると登りの石段となり、いよいよウドンの仏塔が並ぶエリアに入っていく。
最初から躓いてしまったのが、修復を終えた「18腕尺の仏陀のビハーラ」への扉が、どこも開いておらず中に入ることがかなわなかった。
気を取り直して次にすすみます。いろいろなオブジェが目に入ってきますが、カンボジアの寺院ではよく見る光景です。
生き物を救う(洞窟)祠(CAVE BROS SAT)の意味を持つ寺院があります。
聖霊獣ガルーダに支えられたナーガに守られています。

クメール語: គុហាប្រោសសត្វ読み方: クハー・プロース・サット (Kouha Prouh Sat)
シヴァ神の乗り物とされるナンディンの祠があります。
かなり痛んでいて修復された跡のようですが、破壊のすさまじさを残しながら遺産として維持していくのでしょうか。
内部は大切に祀られているようです。キレイに清掃もされて手前には、模様が入ったゴザ敷かれて祈りの場となっていました。
猫が門番を務めていて、中をのぞいていいものかの許可を取ることからはじめます。どうぞ!どうぞ!という仕草で横のベンチの下に移動します。少しでも日陰がすきなようです。
さすがに東南アジアの陽射しは、まだ午前10時をまわったばかりですが、じーんと身体に染みこむような暑さとなってきました。それでも雨季というのに雨に遭いませんね、日頃の行いがいいのかもしれませんが・・・。
この三つの祠の間には、大きくはないですが、仏塔がそびえています。フランスの保護領になるまで王朝があり、その年代によって建築の様式や規模が変わっていくのでしょう。のちにプノンペンに遷都されますが、仏領インドシナ連邦と名を変えていきます。
スレイ・サント(1431)ープノンペン(1434)ーロンヴェーグ(1528)-1618(ウドン)ーフエ(1758=二重属国)ーフエ(1841)ープノンペン(1867)→フランス領インドシナ連邦(1887~)

ウドンの丘に続く3つの道の樹林帯のコース
旧道と言われているマンステップ(男道)からのルートで来ると交差する場所に近いです。観光として使っている人は、あえて使う人はいないような中間地点に合流します。

迂回路の看板
祠の損傷が激しいのか迂回の看板が立っていました。
仏陀の祠が、このウドンの仏跡のなかでもっとも痛んでいて修復工事も行われていないようです。クメール語で立入禁止と書かれています。
私達が、ここまで来た道は、レディステップと呼ばれる比較的緩い登りと石段で、新たに建てられた仏塔に直接石段を登る新道(マンステップ)は、直登りで結構大変です。目的が新しい仏塔から眺めるロケーションだけなら近道です。こちらの新道は、サルが食べ物を狙っていて被害にあっている人がいましたので気を張って歩きましょう。

四面仏が特徴のモニポン王の仏塔
ここからは、地上からもそびえ立っている4つの仏塔を見ていきます。下の方から石段を登ると仏塔が配置されています。
シソワット・モニヴォン王(1927ー1941)の仏塔は、アンコールトムのようにバイヨン様式に見る特徴的な4面仏をもっています。彫刻が丁寧に彫られていて美しい。
アン・ドゥオン王(1847-1859)の仏塔は、陶器のタイルでできた花が描かれている。タイやベトナムの進軍からフランスに働きかけてカンボジアを守ったとされている。その文化が現在のカンボジアに根付いているといっていいようだ。

表面に造作されたタイルの花が特徴
スレイ・サントール時代を経てロンヴェーグ朝からウドンへ遷都して、新都を築きあげたチャイチェッタ2世(1619‐1627)が建立した仏塔が一番古いものになる。
2002年に建てられた一番新しい仏塔で、このエリアでは土足厳禁になります。午前10時半ですが、陽射しが強くタイルでできた通路は、何処もやけどの一歩寸前というくらいの熱さです。靴下が汚れるので素足になっていたこともありますが、現地の学生さん達も同じく素足です。
内部には、たくさんの仏像が安置されています。(内部の撮影は、カメラマークが×となっていた気がします)プノンペン駅前にある仏塔から高僧の遺骨を移されて納められいるので、お参りに来る人も多いのだと感じます。
ウドンの丘から下山します。509段と言われている階段を悠々と降りていきます。地元の人達は遠回りせずにこの階段を使って登っているようです。
2002年の新しい仏塔ができることに伴ってできた登り口です。
現地用SIMカードキャリアローミングについてのメリット
駐車場からもこちらの方が近いです。ここから少し離れた、ソンテワン仏教瞑想センターへ域「大仏像」を見に行きます。
プノンペン郊外もエリア環境が充実してきました。特に観光地化されている場所は4Gですが不自由なく速度がでています。さらに、国道が整備されたので移動においても、気づくと圏外なんてことは昔の印象で全くといって通信環境エリアが広がっていました。
現地のSIMカードでローミングしているのですが、この辺はいたって順調にエリアを捉えていました。それが理由かもしれませんが。スマホのバッテリーの方は充電するまでに至っていません。
キャリアは「Metfone」につながりこのような田舎でも圏外になることもなくつながっていました。
内訳は、iPhone 2台とAndroid1台、iPad1台です。
eSIM以外にもプリペイドSIMカードも同じMetfoneを使ってます。
どちらのタイプも設定してすぐにつながりました。
このSIMの4枚(eSIMもあるので枚ではないですが)うち2つは渡航3日目にして取り外しました。それは、日本のキャリアのローミングを試して見たかったからです。
楽天モバイルの「海外ローミング」とドコモの海外データ定額サービス「世界そのままギガ」を使うためです。
これについては、次回以降の記事内で検証します。
午後からは、川を渡って「シルクアイランド」へ行きます。
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