クメール遺跡を求めて6年越しのシェムリアップへ【12】Apr. 29, 2019~May 06, 2019
アンコール・トムのエリアから脱出します。
北大門を通ってプリア・カンを目指しています。その前にトゥクトゥクのドライバーの青年にランチタイムを勧められます。
「レストラン?いいとこ知ってるよ。」
「まかせるよ!」と私・・・。
そのレストランは、プリア・カンの入口にあった。
「カンボジアンレストラン」か「プリアカンレストラン」という店のあたり。ここは、長屋続きでレストランというよりも、食堂というほうがふさわしい。お腹が心配の人は気を付けないとだめかもしれませんので、しかるべきところでどうぞ(-_-;)
食事をしながら、ドライバーとの話が弾んだ。お互い片言の英語だったが、なんとなく理解していた。トゥクトゥクの車両として「HONDA」がほしいと言っていた。日本製のバイクは、今のに比べると倍以上の金額になるそうだ。
BAJAJ(バジャージ)というメーカーのBOXER X150CC という事らしいが、インドのメーカーらしい。そう言われると日本でもちょっと聞いたことがある。性能も今回のトゥクトゥクを引っ張っているのは、日本製のように軽やかなエンジン音でした。(新しいということもあるのかな!)
チャンバとの戦勝記念に建てたプリア・カン
ジャヴァルマン七世の遺跡には、大乗仏教徒なのにヒンドゥー教の影響を押さえつけなかったのか?
ここプリア・カンにおいても例外ではないようだ。リンガを左右に配置した参道をさらに進むと、ナーガの胴体を引く欄干が現れる。西塔門を抜けしばらく歩くと左手の方向に、ここの修復の過程を見せる展示コーナーがあった。
これだけ見ると、ジャヴァルマン七世の遺跡と変わらないように感じるが、是非ここを間近で見てみたいと思ったのは、木造作りのような柱の構成で、二階建ての作りは珍しいしそれがギリシャ神殿のように見えると言う。
かつてこの寺院には10万人ほど(ちょっと収容できるかは疑問の広さそのうち舞姫は1000人ほど)が仏教を教えるための僧院だったという。
ジブリ作品の「天空の城ラピュタ」の思い浮かべる人も多いのではないか。ちなみに私の場合は、ラーマーヤナ=天空の城ラピュタと覚えるとイメージが沸きやすい。
卒塔婆は、世界遺産のボロブドール遺跡に詳しい。
ここの見に来たのは、石柱でできた二階建ての建物。非常に特徴のあり一瞬にして他の遺跡との違いがわかる。
中央祠堂の北東にそびえる神殿。1階は円柱で構成されて2階は角柱という珍しいもの。ギリシャ神殿にたとえる人が多いのもうなずける。2階に行くための階段はないと言われているので、どのようにして行き来したのだろう。
西から振り返ってみると、シンメントリーになっています。
このプリア・カンで気になったのが、通常は、次の写真のように仏陀の像が枠にきれいに残るのが通常の姿だと思う。
ほとんどが、仏陀像がはぎ取られている。
このような低い位置だけではないのが驚きでもある。
踊り子のテラスの上の踊るアプサラ13人のレリーフはきれいに残っているが、仏陀像ははぎ取られてしまっている。
ここでも、中央祠堂あたりで「寄付金」を募っていた。ツアー参加者がガイドと一緒なら声をかけられるのも少ないかも知れないが、今日はバプーオンの中央祠堂の登り口でも声がかかった。
教育を目的とした寄付なのでムゲにするつもりはないが、日本人とわかると専用の文面が書かれた紙をいれたフォルダーを用意して、読ませながら説明が始まる。(他の言語のものも持っていた)
折角建てられた教育の場も、一部のお金持ちは十分な教育を受けて、普通の人は午前中の早い時間に帰宅してしまう。それは、ボランティアで補えるものなのか、また、通常の教育期間として予算は無いのだろうか?
誤解してほしくはないのですが、日本を含めた各国から教育期間である「学校」の建設はボランティアを含めて盛んに行われている。しかしながら、それを生かし切れず授業が行われていない現状があるようです。
その理由の一つとして、教育者の不足があると言います。ポルポトによって知能の高い人を殺戮の対象とした事もありますが、近年になっても多くの教育者が育っていないのはどのような理由か、という事です。
もちろん、「スナーダイ・クマエ孤児院(Snadai Khmer)」が1998年、国の援助無しに日本人の女性によってはじめられています。
このサイトのBlogには、最近の近況も随時アップしています。
このような活動が、親日の人がカンボジアに多いのもうなずけます。
戦争によって、知識人や技術者を失い教職という人材が足りないのは社会全体の問題だとおもいます。数少ない教師が募金を集めているのはしょうが無いこととして片付けたくなかったのです。
「バプーオンでも同じ内容で寄付させてもらったよ」と言ったら、それとは違うとも言うのだが、あきらめて他の欧米の人に声をかけていた。
今度は、「イングリッシュ teacher」とも言うのだろうか・・・。
最初にも書いたが、大乗仏教徒だった「ジャヴァルマン七世」は、当時ヒンドゥー教のバラモンを圧迫していなかったと言われていたはず。
さらに、このプリア・カンは、アンコールの地をチャンバとの戦いで荒れ果て、やっと勝利して記念に建立した。「ジャヴァルマン七世」の死後、ヒンドゥー教を圧迫していく改革がに対するものだったようだ。
次の場所へ向かう。ここまで来るとかなり疲労困憊である。
先ほどのランチの食べたところまで戻るが、「タ・ソム」を通過してもらうように言う。
最近、道路舗装工事で新しくなったようで非常に段差もなくスムーズになっていた。トゥクトゥクの走行にはありがたい限り。
東メボンにまもなく到着。
前を歩く、ヘソ出しルックのお嬢さんは、たまたますれ違ったアンコールワットのガイドさんに注意されておりました。肩を出しても注意を受けるので当然でしょう。
二段の壁で覆われていて、その端にはそれぞれゾウが置かれている。
入口から三つの祠堂まで階段で登ると、それぞれに配置された遺跡が並んでいる。
ラテライトと砂岩・レンガでできている事がよくわかる。
貯水池の中央に建てられたという東メボンですが、現在は周囲に水もなくその面影はありません。
先を急ぐことにします。できればアンコールワット大回りコースが時間がかかるとはいえ17時位までに終わりたいと思っていた。
次は、「バンテアイ・クディ」を考えたが、前回のシェムリアップへ来たとき、トゥクトゥクをホテル前で拾って、ここの出土品がある「プリア・ノロドム・シアヌーク・アンコール博物館」へ行ったことがあり、調査研究を見てきた。
2014年の5月4日の今日と同じ15時過ぎに訪問。天気も同じように灼熱の太陽が照りつけていた。
こんな記憶も新しい。「バンテアイ・クディ」を飛ばして、タ・プロームへ向かってもらうことにした。
つづく・・・。
このように画像がちゃんと残っているのは、信頼できるSDカードなど記憶メディアに支えられています。
現在では容量が大きなものが主流となっていますが、「SanDisk Extreme Pro」の16GB~32GBを使っていました。気持ちの問題もありますが安心できます。1000万画素程度のコンパクトカメラなので、なるべく大容量を使わずに撮影毎に取り込んでいました。
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